アダニーヤ・シブリー/山本薫訳『とるに足りない細部』沈黙の身体へ憑依する情緒、だが遠さはかえって遠く
読了直後の感想(Xへのポスト再掲)
将校の視認する光景描写の事細かであるが為、被害少女を捉える視線の貧弱さが無視できなくなる。偏りのある詳細、停止状態などではない思惟は、不都合な細部を抹消する、しかし「その存在をひそかに示す小さなディテール」は、逆転した彩度で事物を表す。
現在のイスラエルとパレスチナを覆う緊張は、第二部の語り手の肉体を通じ克明に描かれる。作家の筆致は静謐に、かの地でただ生きることの困難と悲劇を描き出す。怖れを怖れぬ人々を導く、「勝利するのは戦車ではなく、人間なのだ」この標語。怖れに囲繞され震える者、勝者でなければ人間ではないのか。
複数化し重なり合う物語
本作品は二部構成。第一部では1949年にベドウィンの家族を銃殺、少女を拉致暴行のうえ殺害したグループに属する将校の視点が描かれ、第二部では、2004年ころのイスラエルに暮らすパレスチナ人女性が、事件を偶然知るに至り、その真実を求めて彷徨する視点が描かれている。
これらの物語は歴史的に遠く離れた二点を抽出したものだが、しかしいくつかの点で共通していく。身体へ向けられる銃口、体表を流れる水滴、犬の吠え声、そしてこれらの終点には銃撃と流血がある。
第一部において徹底的に抹消された少女の視点、内面を直接に見通すことなど、たとえ作家自身であろうとも叶わない。だが、第二部における語り手の内面は、「ある程度まで」その少女の内面にありうる情緒、思考を、完全とは程遠くとも類推させるものになっていて、ここに本作品の巧みさがある。そしてこれが絶賛にあたいする巧緻な文芸作品であるがゆえに、かえって文芸の、フィクションの怖さがあるのだとも言えてしまう。
古井義昭『誘惑する他者 メルヴィル文学の倫理』第十章「ビリーを撃つ」から『とるに足りない細部』の文学的立場をみる
『とるに足りない細部』読解においても重要な記述となりうることがあったので、ここに併記する。この論文では、かつて徹底的に他者の記述不可能性を追求したメルヴィルが、『ビリー・バッド』においては、まるで人が変わったように、ビリーの内面を断定的に記述する無名の語り手を用いるのだが、これは変節なのではなく、やはりメルヴィルの作家としての倫理観が一貫したものであり、別ルートから他者の記述不可能性を語るものであるということが論じられている。
撃つ(hit)が穿つ遠さ
本論文において注目される単語の一つが「撃つ(hit)」という動詞だ。綿密な描写を対象へ「的中(hit)」させることが、対象を完全に記述するのではなく、むしろ対象を徹底的に抹消する記述になってしまうだろうという、バーバラ・ジョンソンの論考を踏まえ、これが他者性を踏み荒らすような性質を持つものであると指摘する。
『とるに足りない細部』における将校の視線は、少女以外を事細かに捉えており、それがかえって少女へ向けられる眼差しの貧弱さを露呈することになった。では将校の眼差しが、少女のことを事細かに捉え、内心の動きに至るまで「忠実に」述懐していたならどうだったろう。
上記論理に当てはめれば、これもまた対象に内在する他者性を抹消することになるはずだ。文芸作品を満たす文采が、あるキャラクタの内面を確実に「的中」させることの抹消能力は、それを正確に記述しうると偽装しがちな、フィクションを扱う文学の危うさそのものだ。そしてこれは、第二部における女性の視点を、第一部の少女へ代入してしまうときに、この種の越権行為性、抹消能力が働く、ということを意味する。作品における少女そのものは、どうあがいても「遠い」のだ。このことだけは絶対に変わらない。少女は永遠に沈黙を守る。
さらに思索を深めるなら、視点(一種の内面)を強調され、綿密に描かれる将校や、これに付き従う兵士ら、そして第二部の語り手もまた――将校と兵士らの行為の悪質さについては疑いのないところであるものの――きっとこの意味においては、未だ読者からは不可視なのだ。おそらくはそれらも永遠に。物理的な「撃つ」や時間経過は、事後的には決して詰められない距離を、決定的な遠さを穿つ。

