ラートシカムイまだ微睡む

各種感想と、まつわる思索など。

映画『すずめの戸締まり』感想 遺構の声を聴くということの意味を考える

 

映画そのものの正当な解釈といえるか、といえばこれはかなりあやしいが、しかしそれなりにユニークなことは見いだせた気もするので、以下にまとめてみた。ご一読していただけたらさいわい。

新海誠監督史上もっとも好みだが、ひと言も添えたい

もつれをほぐし循環を取り戻すメインストーリーや、アクションの美しさに感情は揺さぶられたが、一部の評論にみられた直線的死生観による解釈は、現に理不尽な災害で何かを失い苦しむ人々を置き去りにする生者の為の定型なのであり、この映画がそのように解釈されうるということなのであれば、これに異論を申し立てずにいることはできない。

作中において、文化的生活の中心から外され、時間の流れから置き去りにされた、いわば不可視化された廃墟という過去の遺物。それに連ねられ最後に辿り着くのが「震災遺構」であるという、こうしたモチーフの扱いは、けっして軽んじることができない。

被災の現実をモチーフとして用いる物語が、死者との関係を強制的に断絶し、前進する生者というイメージの正当化のために、死を都合よく利用する物語であるべきか、被災体験とは、それほど単純な物語化で了解可能なものだろうか、そのような問いをここで発したく思う。

声=デッドレター

劇中において、鈴芽や草太は、人々から見捨てられ、忘れ去られつつある廃墟に刻まれた生命の痕跡、その標から、かつてそこにいただろう人々の声に耳を澄ませ、これを聴き取っていくことで鍵穴を見出す。このプロセスに注目する。

 

作家メルヴィルは「デッドレター」と言われるモチーフを好んだとされる。配達不能郵便と日本語訳されるそれは、けっして送り手の希望通りには届かなかった手紙のことをいう。デッド=死とあるものの、しかしデッドレターはまだ字義通りの死を迎えてはいない。そこにはまだ、読まれる可能性が僅かながらでも格納されてもいるからだ。

それが何らかの形で記され保存されているからには、いつかは誰かの目に触れるだろう。そしてそれらのデッドレターが、時空を超えて誰かの手で編纂などされ、読者を得ることにより多くの繋がりを得、何らかの意味が見出されていく――デッドレターが孕むのは、そのような無限の潜在性に向けて拓かれる可能性だ。

発信者には未知であった読み手の手に渡り、読まれることでデッドレターは息を吹き返す。しかも二重にも三重にも、命を得ることが可能になる。時間や空間など物理的に隔てられた、その埋めがたい距離がなんらかの作品(物質化)によって緊密に繋がれるとき、各々の読み手はそこに何らかの感情や意味、共通性や他者性を見出すことができるだろう。

 

戸締まりをするために必要であるとされる「遺構の声を聴く」こと、そのとき聴かれる「声」もまた、不活性化されたメッセージ、すなわちデッドレターとみなしうる。この声=デッドレターが受け取る他者を得て、その意味を回復するという流れは上述の通り。ここで重要としたいのは、聞き手の、積極的に受動的行為を行う意思だ。

身勝手に取材し解釈し、こちら側の立場を中心化して物語るのではなく、まずは傾聴するという行為によって廃墟(他者)の物語に自らを投じること、このような受容の態度が、デッドレターの引き取り手に求められる、最初の、そして最後まで徹底されるべき倫理性なのではないか。そして劇中において、戸締まりの前に必ずすべきこととされる真の意味は、このようなことではなかったか。

自己とは隔絶した差異ある他者の現実へ、いかに真剣に向き合うか。他者は隔絶して不可視であるが、だからといって放置せず、その向こう側に、自分には未知である何かがあると信じ、潜在する呼びかけへ応じることで、この身体を開放すること*1が求められている。このとき「私」は奏者でありながら、奏でられる側の共鳴する楽器ともなる。

 

直線的死生観に染まっているという無自覚さの自覚を

直線的死生観から物語の意味を論じた、ある評論についての話題に戻る。そこでは「死者はけっして蘇らない」という死生観が語られていたのだが、はたして本当にそうか。それは評論家当人が所属する側、つまり無傷な多数派の手によって設定された了解強制のルール、標準的一般人*2がコストをかけずに済むよう簡略化された、「便宜的現実」に基づくルールに過ぎないのではないだろうか。しかし実際の「現実」は個々人に多様である。

存在しない標準的経験に中心化されたルール、これを内面化したうえで語られる死生観。死者を静止や停滞といった観念で捉え、生者には等しく未来や前進を志向させること。このような仕方を正しい行いとして強調することは、そうしない、できない者を、停滞をもたらす悪のように捉える、そのような自認を強要することへも繋がる。

 

過去-未来という直線的死生観は、畢竟するところ切り捨ての論法なのであり、これが回復をもたらすかと言えば、必ずしもそうではない、むしろ逆効果が多くあることを知らねばならない。死生観を主張する者にとっての、そうであってほしいという願望、この無傷の他者による思い込みがもたらす暴力性は、声を挙げることもできない人の心のうちに、癒されない傷となって蓄積されていく。このような現実の実在をこそ、けっして無視してはならない。

もしこの評論こそまったく正しく、この映画が、過去は変えられない、だから過去を過去のものとしてけっして振り返るなというメッセージを発しているのだとしたら、被災地描写を包括的に捕捉する、いかにも正当っぽい装いで、被災を他人事化する暴力性の発露であるに過ぎない、ということにもなりかねない。では、はたしてこの映画がそのようなものだったかといえば、ぼくにはそうとも思われない。

 

先日、東日本大震災の被災者を詳しく調査*3した、金菱清『生ける死者の震災霊性論』を読んだばかりなのだが、これに記述される心霊体験や夢との関わり方、作中では無時間的な常世のなかでのみ存在する、いわば「制度的存在者」*4として死者をいまここへ招き入れる仕方は、当然あっていい。

 

ここで上述したデッドレターを、受け取り手が意味を活性化させ書き手の意思に命を与える、その手順を想像してもらえるといい。「書く-読む」という関係から成る、重厚な制度的環境に依り制度的存在者として立ち現れる、存在の可能性を内包するデッドレターが、息を吹き返すさまを。

不在の他者(死生観に則るなら死者)もまた、デッドレター同様に、読まれる日を待ちながら静かに、どこかで眠り続けている。かつての在り方を失い、不活性状態にある不在の他者が、過去と未来が混淆する無時間的な場において、たとえば夢の訪問者として、あるいはタクシーに乗り込む幽霊として、世に現れることがあるという*5

そのようにして現れる他者は、文章以外のかたちで届くデッドレターなのであり、それが可読である、すなわち経験的に「ある」と言えるのならば、これを存在として認めることを「制度的存在者説」は論じる。

「ありえない」と断じることが容易いのと同様に、制度的存在者を肯定するルールへ参与することも実に容易い、上述しているように積極な受容態度があれば、まずはいい。どちらがよいかを選ぶのは個々人の自由だ、しかし他者の経験を「他者にとってもないもの」としてしまうのは、自己を中心化あるいは教条化する、他者の他者性への甚だしい侵害であるとは言っておく。

容易く断じられるようなありえなさは、基本的に他者性を完全排除したありえなさである。少なくともそのように自覚されているべきだ。真にその「ありえなさ」を論じるなら、他者性にじゅうぶん配慮した説得可能な論理である必要があり、当然このようにすることはけっして容易いことではない*6

 

いまなお「被災者であり続けていざるをえない」という現実を知らなすぎる、ということを、いまだ多くの人が自覚しないでいる。当の評論は、その典型的な表れであるとぼくは読んだ。普遍的で強制的な、ある支配的な宗教観念に固執し依存した死生観と、自己があるべきと感じている現実とのギャップに苦しんでいる人が少なからずいるということについて、いまいちど目を向けるべきだということを、強く感じているところだ。

 

 

 

*1:作中のモチーフでいえば、「傾聴」のほかに「旅」「移動」なども開放的行為として読める

*2:そんな人間は存在しない

*3:調査対象者自らに手記を書かせることで、本人にも理解されてない被災の意味を引き出す「記録筆記法」という手法を用いている

*4:VTuberもまた制度なかで人間同様に存在することができる者である=制度的存在者とする理論を展開した、山野弘樹『VTuberの哲学』参照

*5:前者はぼく自身にも経験がある

*6:ゆえに安易な短文による批判レビューなど言語道断、すべきではない

山野弘樹『VTuberの哲学』読了。その思索、発展途上にてひとまずこれを書き留める

 

もしかすると、哲学分野に親しみのないリスナーにはかなり敷居の高い本、と見えるかもしれない。SNS上にも一部、そのような不安を吐露するものがみられた。だが、未知の学問への一歩は、往々にして現状の自分に対する挑戦の一歩であるものだ。

読み通せない、理解できないかもしれないといった不安など、どんな立場の読者にもついてきて当然の悩みといえて、哲学書をちょくちょく買って読み続けてきたぼくのような読者だって、そのような迷いやビビりと今なお向き合い続けているくらいで、なんなら今年もすでに黒星ひとつ頂戴している。

 

著者である山野弘樹(以下、すべての個人名はVTuberも含め敬称略とする)のプロフィールにさっと目を通せば、リクール、レヴィナスデリダ等の厳ついビッグネームが並び、本書では他にサールなどの名前も登場する。これだけで一般読者はちょっと引いてしまうところがあるかもしれないが、しかし本書においては、もちろんそれだけではない。名だたる哲学者の名前に並んで「夜見れな」「姫森ルーナ」「キズナアイ」「さくらみこ」「月ノ美兎」「宝鐘マリン」「戌神ころね」「イブラヒム」など、VTuberファンなら馴染みがある名前も頻繁に登場する。

界隈の流儀で言うなら、まさにこれは哲学とVTuberのコラボだ。双方への深い知見が混然一体となって書かれる哲学書など、前代未聞であるし、もうこれだけでなんじゃこりゃ感がすごい。ワクワクする。興味こそ、人を前進させる最強の活力だとぼくは思う。

 

本書はあくまで「VTuberの哲学」を論じているのであり、VTuberファンこそ主たる読者として想定されたうえで書かれている(きっとそのはずだ)。確かに哲学ベースの濃ゆい記述も多く含まれるけれど、VTuberという媒体を通じてこれを理解していくという逆の見方をするなら、哲学入門書としてずいぶん有用なんじゃないか。たとえ前半の理論解説ではさっぱりだったとしても、事例研究の記述でなるほどと理解、納得できてしまうことだってじゅうぶんありうる。

本書を読むだけで主張される理論が理解できるくらいには、過不足なく明晰だとぼく自身は評価しているのだが、むろん、するする読めるというのではないので、先々で躓かないためには、第一章や第二章あたりを疎かにせず、「VTuberとはどのような存在であるか」という理論部分を頭に叩きこんでおくことをまずはオススメしておく。

事例に親しみがあることとはいえ、誰かの提唱する理論を一読して理解することなど、なかなか大変なことだ。おそらく何度も来た道を戻ることになるはずなので、そのときなるべく楽をできるよう複数のマーカーペンを駆使してキーワードに色を付けたり、カギカッコで囲ったり、線を引いたり、ちょっとした思いつきも書き込みしておくなど、工夫を凝らして理論に臨むのがいい。読了時、自分向けにカスタムされたガイドブックが出来上がっていれば、上々だ*1

そもそもどこにマークを付けるのがいいのかも迷ってしまう、どうしても判断がつかずダメだというなら先へ進んでしまってかまわない。上記したように、事例研究のほうで理解するパターンに希望を見出すのはアリだ。いずれにせよ、どういったルートを選ぶかは自由で、いかに読むかも個々の能力や経験にもよる。ぼくのこのブログ記事で紹介する事々も、読み方や読解の一例に過ぎない。

 

なお、著者が重ねて明示しているように、本書の提案は「理論的オプション」候補であり、これを読者が自らの立場に組み込むこと、可能なら応答までが求められているのだと受け止めている。著者の問いから自分固有の問いを発し、それに自ら応じ発信するのが、ぼくの読者としての倫理的態度だ。

 

第一章(03/31読了)

いまシーンにおいて最も活躍しているVTuberらを、「配信者説」(HIKAKINやガッチマンVなど)「虚構的存在者」(ゴールドシップなど)などとは異なる、両立的でありつつそれらの区分をはみ出すような在り方をしている存在、すなわち「制度的存在者」として位置付ける。

そしてサールの哲学理論にいう「地位機能宣言」が、いかに人間の制度的現実を創出・維持する機能として働くかや、創出された(地位的な)器を満たすVTuberアイデンティティが「身体的」「倫理的」「物語的」の協働によって成立するさまが分析、論じられていく。なお、この章の注釈は粗探し者への倫理的応答集なんで必読。

 

とりわけ同一性と自己を分けて考えるあたりからぐいぐい面白みが増すのだが、個人的に反応したくなったのは、独我論者からの批判を想定する場面*2。ここで言われる対他的自己と独我論者の主張する自己は違う。後者の指すそれは多数がない前提で数え上げ不可能、なので厳密には対他概念である自己ですらない。そして独我論者は誰に向けて論じてるのか、という疑問に応える義務があり、この義務は独我論の他者なき構造ゆえに、果たされることがありえない。

独我論者への言及という脇道ついでに、本章における「倫理的アイデンティティ」の成立要件についても言うと、これは清廉潔白すぎるように読めた*3。例外事例として、たとえば病や個々人同士の関係性により、多数者側から見て非統一的人格であると評価されるその個人は、倫理的アイデンティティ保有しえないのか。個人的にこれは、みなしによる主観の(不当でありうる)制圧と捉えている。

第二章(04/01読了)

アリストテレス等の哲学概念から、VTuberの身体性が論じられる。入れ替わり事例における「宝鐘マリンin配信者K(仮称)」と「戌神ころねin配信者M(仮称)」は、それぞれ新規の制度的存在者であるという説。これに関連し、リスナーによる承認の価値も考えたい。

配信者の倫理的態度と協働関係にはありつつ、それに内包されきることはないリスナーの倫理。各人に配信者の要求へ応える、または反発する倫理的態度があって、これもまたVTuberという制度的存在者を形成する、不可欠なひとつの力として見る。

個々への具体的な確認行為は全く不要であっても、当のVTuberを成立させる場の成員に共有可能な「承認可能性」を読み違えれば、キズナアイ分裂騒動のような事態を招いてしまうことになる。そうした不文律のいわば「お約束」は、一方的制約とは違い、配信や様々な交換から日々醸成され、変化の余地がある。このようなインタラクティブな相互の関係性は、なかなかスリリングで目が離せないものであり、観る者の興味を惹き続ける面白みの源泉であるとも言えそうだ。

 

そしてこれはぼく自身が経験したことだが、配信者交代という、モデルも名前も引き継いでいるが、しかしそれにより制度的存在者としてのVTuberXは消滅し、実質的にVTuberYとなる事例。この配信者側の倫理的逸脱という事態も、リスナーからの承認可能性を抜きには考えられないように思う。

Xを知っていた者にとってYは偽者でありうるが、しかしXを知らない者にとってその論理は理解できても体感は出来ない。つまり「Yしか知らない時期があり、真相を知ってもYを偽者と思わず、Xのことは転生後の存在としてのみ認識する」、この実在ケースを考えていく必要を(もちろん自分事なんで)感じている。

たとえ配信者が倫理に照らし自らを偽者と考えていたとしても、リスナーはそれそのものとしてYを本物と認識することができる。ゆえに制度的存在者としてのVTuberには、配信者や運営、デザイナーやリスナーなど、関係者全体に共有される成立と、個別の関係性の上での成立みたいな段階的区別がありえそうだ。

第三章第一節(04/02読了)

プロフィール文の解釈として提案される「真偽」「フィクショナルに真」「アイデンティティの引き受け」という3つのアプローチ。ここで著者はゲームとそれに登場するゲームキャラクタを引き合いに、静的な虚構世界にべったり貼り付き不可分であるゲームキャラクタの人物プロフィールと対照させることで、VTuberのそれが違う仕様であることを明らかにしている。

VTuberのプロフィールは動的、つまり流動的性質を持つ。それはVTuberの依って立つ舞台が「常に変化するこの世界そのもの」であるからだ。これは非Vであるぼく(普遍的意味における人間)の仕様と、差異がない。ぼくらはプロフィールを明文化していないが、これを不変不動であるかのように誤解する者は、他者の矛盾を安易に批判する。

 

「フィクショナルに真」の立言。管見の限りではあるけれど、脳科学的には人間が感知し構成する世界は、全てが仮想の産物、フィクショナルに真なるものの集合といえて、切れ目なく仮想であるからには、全てをひっくるめてこれを「現実」というしかない。

つまり「VTuberだけを特別視するわけにいかない」んだ。このぼく同様に、VTuberも「この世界」に根差す不可分な存在として、真という認識になる……なるというか、そうであらざるをえない。

そして「アイデンティティの引き受け」、やはり出たわねパフォーマティヴ理論。ぼくはこの語の把握にめちゃ苦戦し続けてるんだけど、たぶん本書における「宣言」もこれ(パフォーマティヴィティ)の一種かな。言行そのものが既にあるを示すみたいな? これ、やさしい解説がなかなかないんだ、ネットも本も。

 

シスター・クレア曰く「生き様」の表明でもあるようなプロフィールへ向けられる一部の批判は、おおむね倫理間の相違によるとみえ、これは独立してあるべき他者性(固有の倫理観)への明確な侵犯であるといえる。せめてお願い文にしときなさいよ、と*4。拘束的命令よくない。

関連して、以前に一条莉々華が配信で「VTuberがいま着てる服の話をするな」といわれ驚いた、というエピソードを披露していたが、これも一条莉々華が有して当然である、生き様決定権への不当な介入といえる。まあこの話はあんまりすぎて、つい笑っちゃったんだけど。

 

だいぶ余談。この章においてリスナーから笑える「偽」と了解される例として挙げられる、月ノ美兎のプロフィール「性格はツンデレだが根は真面目な学級委員」だけど、これぼく的には真なのだが? 「数々の奇行」は「真面目」と対立するのではなく「ツン」に係るもので、表面上は奇矯でありながら「根は真面目」という「デレ」につながって可愛いぞ委員長、という読解。

 

第三章第三節(04/03読了)

VTuberの現実世界の体験談をどう捉えるか。第四の選択肢、現実世界における経験を「制度的事実」と解釈する立場は、ぼく自身の直観とも重なる。本書では赤井はあとの事例で詳述されるが、直近では宝鐘マリンの「痩身エステ」体験動画も、このことを説明する好例だった。

配信者の体内ですくすく育ったセルライトが、動画内の発言によって「宝鐘マリン」の肉体に「移植」され、「船長」のものと周囲に理解される事態もシームレス、タイムラグなしに(了解)可能だ。著者はこれを「シームレスな経験の移行」として論じる。

そして現実の体験談の主役にVTuberモデルを配したファンアート、これに着眼したところがとても面白かった。なるほどこれはCタイプの現実性をそのまま描いたもの、といえるのかな。

 

VTuberと配信者の関係は、どちらか一方に従属しきることがなく、場面に合わせてどれかがアクティブになっていたとしても、非アクティブな他の要素がないことにはならない。接続しあう全ての要素が、それぞれにアクターとして等価と考えるANT的に解釈していくのが、ぼく的には正当と思える筋。

行為主体、主体性の自己認識には、無意識的に隷属する中心性のモデル(フィジカル由来が圧倒的強者)があるけれど、VTuberはこれを平気でぶち抜いてくるから興味深いんだ。そしていま、自由意志/自由意思はなくとも主体性はある、という考えがぽこんと生まれたな。まあ現代哲学的には、こんなのふつうか。

 

第四章(04/04読了)

第四章では、VTuberの二次元性、三次元性を分析し、リスナーとの間でいかに「メイクビリーブ(ごっこ遊び)」が実践されるかが論じられる。「見立て」が「見え(体感)」を誘導するには、双方の同意が必須の前提。ルールへの同意なしに遊びが成立しないのは、なんであれ当然のこと。

コラボのとき一部リスナーが「おじゃまします」と言うのも、リスナーとVTuber双方に向けて発信される「見立て」だ。ぼくはあれが苦手で、電信的接続までは許容できるけど、そこに自らが上がり込むのは越権行為、そんな親しくはないだろと思ってしまう。つまりその「配信部屋」が「VTuberの私的空間」であると認めているからこその忌避なのだ。

章の後半や注釈60でも明言されてるけど、この本が論じる内容は、基本的にVTuberとリスナーの協働関係*5を基礎として、その関係や内部構造を分析するものとなっている。なので文化に親しみを感じない者が「自分にはそうみえないんだよな」と指摘したところで、この本の内容については何も言い得ていない。ごっこ遊びに直接参加するか、その遊び内容を正確に想像し、そのとき行われる交感について疑似的にトレースした上で語ることでしか、その質感に達することなどかなわないだろう。

 

さて、この章において例として挙げられる『バイオハザード』実況、クリス・レッドフィールドに対するみこちの「熾烈な説教」という記述なんだけど、この引用箇所は追求の熾烈さが想像できるだけに、読んでいてつい吹き出してしまった。このファンサ的ノリがふんだんに盛り込まれていても、風変わりな哲学書の色が濃くなって、特異な存在感を示せたまである。著者からするとけっこうなギャンブルだろうけれど。

 

第五章(04/05読了)

第五章では芸術の定義として「制度説」を採用、その観点からVTuberがいかに芸術として受容されるかを導く。ここまである程度しっかりと通読していれば、もうこのあたりの議論で躓くことはないはず。あとは事例研究集なんで、VTuberファンはニーヤニヤしながら読むやつです。なお注釈19や22は、リスナーの心構えとして非常に重要なので必読。

第二、第三節は、個別に倫理的/物語的アイデンティティを有するVTuberとリスナーが言行を通じて相互干渉し変化を受け入れ合う、という関係にあることを論じ、これは人間一般に普遍の営為だ。そうであるがゆえ、そこへ参加するVTuberもまた、人間同様「「生きた」存在に他ならない」とする帰結。

 

本書において繰り返される「制度説」は、一見した限りでは固い響きだが、読めばこれが流動性を持つ開かれた理論として書かれている、とわかる。明示的に分析や解説されているからといって、強制力を発揮することはなく、むしろそのように理解されることへの警戒心と配慮が、ところどころ垣間見える。

印籠や正典のように扱われるのではなく、実践のための参考書、アレンジアイデア本、そのくらいで把握するのが適切だろうか。第一章や第二章の前半あたりまでは哲学理論解説の色が濃く、人によってはしんどみを感じてしまうかもしれないが、後半の事例研究的記述など、わりとニヤつくレベルで楽しい(大事なことなので二度言う)。

 

芸術に詳しいVTuberといえば、言わずと知れた儒烏風亭らでんだけど、どうやら本書は今月*6の読書会における推薦図書らしいので、特にこの芸術性を扱う第五章については独自の見解を伺いたいところ。ちょっとたのしみにしてる。

おわりに

哲学書の記述に著者の情緒が漏れることについては、もしかすると批判する向きもあるかもしれない。しかしこれはこれとしてユニークで面白い試みなんじゃないか、とぼく自身は捉えている。ファンと哲学のあいだに架橋する本としては、いいバランスだったのではないかと。

以上はルール了解済みのファン目線なのかもしれないけれど、新しいものへは積極的に了解の態度を、半ば強制的にでも言行で示し、自らの変容を促すのが自分のスタイルだし、そのほうがエッセンスを楽しめることは経験則的に明らかなんで、業界の際にいる人、興味のある人はぜひいったん沼に足を踏み入れてみるといい。何と言ってもぼく自身が、もともとVTuberにはかなり否定的な人間だったのだ。変われば変わるもの、である。

 

この風変わりな哲学書は、もちろん哲学の歴史に乗っかった真面目な本だが、同時にVTuberという最先端のユニークな遊びの深みへ誘う本ともいえる。ここに構想された幾つかの理論は、読者の手によって積極的に使われることで、研ぎ澄まされ、より精緻な、しなやかなものとなっていく。それぞれの視座は他者とは違い、決定的にユニークな主体としての可能性を持つのだから、これを活かさない手はない。自分にはちょっとしたこととしか思えないことでも、他者にはなるほどと膝を打つようなことでありうる。

「おわりに」において、著者自身が本書を「小著である」と述べるのは、上梓以前には影もかたちもなかった、未来にこの本を手にするVTuberファンやファンではない全ての読者らへの、期待の表れなのだろうと読んだ。ここに込められた願いが、これから先も連綿と繋がれていくことを、ぼくも期待している。

 

*1:索引があれば文句なしだった

*2:本題からは逸れている

*3:この点は注釈47に記されてる

*4:なお、丁寧なお願い文であっても、意見者自身の気持ちを人質に取る卑怯な圧力となりうるし、何事もそのまま受け入れるというのがぼくのスタンス。ぼく自身は、厭ならそっと立ち去る派である。

*5:エモみが深い単語へ言い換えるなら「共犯」

*6:2024年4月