ラートシカムイまだ微睡む

各種感想と、まつわる思索など。

映画『すずめの戸締まり』感想 遺構の声を聴くということの意味を考える

 

映画そのものの正当な解釈といえるか、といえばこれはかなりあやしいが、しかしそれなりにユニークなことは見いだせた気もするので、以下にまとめてみた。ご一読していただけたらさいわい。

新海誠監督史上もっとも好みだが、ひと言も添えたい

もつれをほぐし循環を取り戻すメインストーリーや、アクションの美しさに感情は揺さぶられたが、一部の評論にみられた直線的死生観による解釈は、現に理不尽な災害で何かを失い苦しむ人々を置き去りにする生者の為の定型なのであり、この映画がそのように解釈されうるということなのであれば、これに異論を申し立てずにいることはできない。

作中において、文化的生活の中心から外され、時間の流れから置き去りにされた、いわば不可視化された廃墟という過去の遺物。それに連ねられ最後に辿り着くのが「震災遺構」であるという、こうしたモチーフの扱いは、けっして軽んじることができない。

被災の現実をモチーフとして用いる物語が、死者との関係を強制的に断絶し、前進する生者というイメージの正当化のために、死を都合よく利用する物語であるべきか、被災体験とは、それほど単純な物語化で了解可能なものだろうか、そのような問いをここで発したく思う。

声=デッドレター

劇中において、鈴芽や草太は、人々から見捨てられ、忘れ去られつつある廃墟に刻まれた生命の痕跡、その標から、かつてそこにいただろう人々の声に耳を澄ませ、これを聴き取っていくことで鍵穴を見出す。このプロセスに注目する。

 

作家メルヴィルは「デッドレター」と言われるモチーフを好んだとされる。配達不能郵便と日本語訳されるそれは、けっして送り手の希望通りには届かなかった手紙のことをいう。デッド=死とあるものの、しかしデッドレターはまだ字義通りの死を迎えてはいない。そこにはまだ、読まれる可能性が僅かながらでも格納されてもいるからだ。

それが何らかの形で記され保存されているからには、いつかは誰かの目に触れるだろう。そしてそれらのデッドレターが、時空を超えて誰かの手で編纂などされ、読者を得ることにより多くの繋がりを得、何らかの意味が見出されていく――デッドレターが孕むのは、そのような無限の潜在性に向けて拓かれる可能性だ。

発信者には未知であった読み手の手に渡り、読まれることでデッドレターは息を吹き返す。しかも二重にも三重にも、命を得ることが可能になる。時間や空間など物理的に隔てられた、その埋めがたい距離がなんらかの作品(物質化)によって緊密に繋がれるとき、各々の読み手はそこに何らかの感情や意味、共通性や他者性を見出すことができるだろう。

 

戸締まりをするために必要であるとされる「遺構の声を聴く」こと、そのとき聴かれる「声」もまた、不活性化されたメッセージ、すなわちデッドレターとみなしうる。この声=デッドレターが受け取る他者を得て、その意味を回復するという流れは上述の通り。ここで重要としたいのは、聞き手の、積極的に受動的行為を行う意思だ。

身勝手に取材し解釈し、こちら側の立場を中心化して物語るのではなく、まずは傾聴するという行為によって廃墟(他者)の物語に自らを投じること、このような受容の態度が、デッドレターの引き取り手に求められる、最初の、そして最後まで徹底されるべき倫理性なのではないか。そして劇中において、戸締まりの前に必ずすべきこととされる真の意味は、このようなことではなかったか。

自己とは隔絶した差異ある他者の現実へ、いかに真剣に向き合うか。他者は隔絶して不可視であるが、だからといって放置せず、その向こう側に、自分には未知である何かがあると信じ、潜在する呼びかけへ応じることで、この身体を開放すること*1が求められている。このとき「私」は奏者でありながら、奏でられる側の共鳴する楽器ともなる。

 

直線的死生観に染まっているという無自覚さの自覚を

直線的死生観から物語の意味を論じた、ある評論についての話題に戻る。そこでは「死者はけっして蘇らない」という死生観が語られていたのだが、はたして本当にそうか。それは評論家当人が所属する側、つまり無傷な多数派の手によって設定された了解強制のルール、標準的一般人*2がコストをかけずに済むよう簡略化された、「便宜的現実」に基づくルールに過ぎないのではないだろうか。しかし実際の「現実」は個々人に多様である。

存在しない標準的経験に中心化されたルール、これを内面化したうえで語られる死生観。死者を静止や停滞といった観念で捉え、生者には等しく未来や前進を志向させること。このような仕方を正しい行いとして強調することは、そうしない、できない者を、停滞をもたらす悪のように捉える、そのような自認を強要することへも繋がる。

 

過去-未来という直線的死生観は、畢竟するところ切り捨ての論法なのであり、これが回復をもたらすかと言えば、必ずしもそうではない、むしろ逆効果が多くあることを知らねばならない。死生観を主張する者にとっての、そうであってほしいという願望、この無傷の他者による思い込みがもたらす暴力性は、声を挙げることもできない人の心のうちに、癒されない傷となって蓄積されていく。このような現実の実在をこそ、けっして無視してはならない。

もしこの評論こそまったく正しく、この映画が、過去は変えられない、だから過去を過去のものとしてけっして振り返るなというメッセージを発しているのだとしたら、被災地描写を包括的に捕捉する、いかにも正当っぽい装いで、被災を他人事化する暴力性の発露であるに過ぎない、ということにもなりかねない。では、はたしてこの映画がそのようなものだったかといえば、ぼくにはそうとも思われない。

 

先日、東日本大震災の被災者を詳しく調査*3した、金菱清『生ける死者の震災霊性論』を読んだばかりなのだが、これに記述される心霊体験や夢との関わり方、作中では無時間的な常世のなかでのみ存在する、いわば「制度的存在者」*4として死者をいまここへ招き入れる仕方は、当然あっていい。

 

ここで上述したデッドレターを、受け取り手が意味を活性化させ書き手の意思に命を与える、その手順を想像してもらえるといい。「書く-読む」という関係から成る、重厚な制度的環境に依り制度的存在者として立ち現れる、存在の可能性を内包するデッドレターが、息を吹き返すさまを。

不在の他者(死生観に則るなら死者)もまた、デッドレター同様に、読まれる日を待ちながら静かに、どこかで眠り続けている。かつての在り方を失い、不活性状態にある不在の他者が、過去と未来が混淆する無時間的な場において、たとえば夢の訪問者として、あるいはタクシーに乗り込む幽霊として、世に現れることがあるという*5

そのようにして現れる他者は、文章以外のかたちで届くデッドレターなのであり、それが可読である、すなわち経験的に「ある」と言えるのならば、これを存在として認めることを「制度的存在者説」は論じる。

「ありえない」と断じることが容易いのと同様に、制度的存在者を肯定するルールへ参与することも実に容易い、上述しているように積極な受容態度があれば、まずはいい。どちらがよいかを選ぶのは個々人の自由だ、しかし他者の経験を「他者にとってもないもの」としてしまうのは、自己を中心化あるいは教条化する、他者の他者性への甚だしい侵害であるとは言っておく。

容易く断じられるようなありえなさは、基本的に他者性を完全排除したありえなさである。少なくともそのように自覚されているべきだ。真にその「ありえなさ」を論じるなら、他者性にじゅうぶん配慮した説得可能な論理である必要があり、当然このようにすることはけっして容易いことではない*6

 

いまなお「被災者であり続けていざるをえない」という現実を知らなすぎる、ということを、いまだ多くの人が自覚しないでいる。当の評論は、その典型的な表れであるとぼくは読んだ。普遍的で強制的な、ある支配的な宗教観念に固執し依存した死生観と、自己があるべきと感じている現実とのギャップに苦しんでいる人が少なからずいるということについて、いまいちど目を向けるべきだということを、強く感じているところだ。

 

 

 

*1:作中のモチーフでいえば、「傾聴」のほかに「旅」「移動」なども開放的行為として読める

*2:そんな人間は存在しない

*3:調査対象者自らに手記を書かせることで、本人にも理解されてない被災の意味を引き出す「記録筆記法」という手法を用いている

*4:VTuberもまた制度なかで人間同様に存在することができる者である=制度的存在者とする理論を展開した、山野弘樹『VTuberの哲学』参照

*5:前者はぼく自身にも経験がある

*6:ゆえに安易な短文による批判レビューなど言語道断、すべきではない